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日野宿本陣の写真

日野宿本陣

明治天皇が連行寺へ向かう途中で旧佐藤邸で小休止された記念碑。
明治天皇ご来館記念碑
「明治天皇日野御小休所趾及建物附御膳水」と刻まれています。
記念碑
「椀、平椀、大平椀」 佐藤彦右衛門が蜀山人を歓待した時のもの。
蜀山人関連

【明治天皇を笑わせた蜀山人(しょくさんじん)】

日野宿本陣の上段の間の襖には大田蜀山人の書画が表具されていた。その1枚に書かれていたのがタケノコの絵と狂歌である。

蜀山人画題(落款)
たけのこの そのたけのこのたけの子の
(繁)(目出)
子のゝゝ末もしけるめてたさ

来訪は竹の子の出る季節であり、直次郎が目出度い竹の子の成長にたとえて、彦左衛門の子孫繁栄・家運長久を祈念したものであろう。句の随所で取り入れられた擬態語「のこのこ」という軽妙な語感には、誰もが思わず吹き出しそうになる。
事実、明治14年(1881年)の行幸(ぎょうこう)の際、明治天皇が前年についで佐藤家で再度の休憩をとられたが、襖に書かれていたこの狂歌をご覧になって、声高らかにお笑いになったという。

①からの番号は下図の「日野宿本陣現況図」の部屋番号になっています。

①「鬼瓦、棟札(むなふだ)」 日野宿本陣の瓦。(下に説明があります)
鬼瓦
②「土間」 土間と床上は約2.5尺(約76cm)あり、床は一般民家と比べると高い位置にある。
土間
③「広間」 ここは名主の仕事部屋と言われています。
広間
④「玄関の間」 土方歳三が昼寝をしたとされる部屋。「文乃武乃」(すなわちぶすなわちぶん)は柳田正斎の書。
玄関の間
⑤「式台」 当家を訪れた大名等の身分の高い人々は、式台から上がって玄関の間、廊下と進んだと思われます。
武台
⑥「控えの間」 土方歳三の書の先生、本田覚庵(かくあん)の孫の本田石庵(せきあん)の筆。
控えの間

日野宿本陣現況図

日野宿本陣現況図

【日野宿本陣の瓦】

日野宿本陣は佐藤家より譲り受けた宮崎家によって、昭和53年~54年(1978~79年)に補修及び改修工事が行われている。その際、当初は土葺で瓦は竹釘で留められていたものを、現在のような桟瓦葺に変え、瓦も宮崎家の家紋である丸に根笹が入ったものに替えられた。ここに展示した燻(くず)べ瓦は創建当初のものと考えられ、佐藤家の紋所である源氏車(げんじぐるま)が施されている。源氏車は御所車ともいい、牛車(ぎっしゃ)の車輪にかたどったものである。

燻(くず)べ瓦は素焼きであるため水分がしみこみやすく、凍結などによって破損するため補修が必要であり、また大正12年(1923年)の関東大震災によって屋根が傷んだため、宮崎家による補修工事以前に、大正13年(1924年)佐藤家による屋根補修工事がなされている。

日野宿本陣に展示している鬼瓦は、「小谷田 瀧澤製」の刻印が認められ、小谷田で誂(あつら)えた瓦であることが分かる。「小谷田」とはかつての埼玉県入間郡東金子村小谷田(現入間市東金子)のことであり、平安時代からの瓦生産地として有名なところである。「瀧澤」というのは小谷田で大正時代より操業を始めた業者であり、大正13年の佐藤家による補修の際に誂えられた瓦である。この鬼瓦以外にも補修に際し多数の瓦が誂えられている。
創建当初初葺かれた瓦もその後の補修に際して使用された瓦と同様に小谷田で焼かれたものであろう。

⑥「控えの間」襖の絵は丹崖(たんがん)作。
控えの間
⑥「控えの間」欄間(らんま)です。麻の葉を表現しています。
欄間
⑦「中の間、下の間」襖の漢詩は柳田正斎(やなぎだしょうさい)筆。
漢詩
⑦「中の間、下の間」欄間(らんま)です。(左)「秋冬」(右)「春夏」を表しています。
中の間、下の間の欄間です。
⑧「納戸」庭の眺めをぜひ実際にご覧ください。
納戸
庭の雪化粧。昔はもっと積もっていたことでしょう。
庭の雪景色
⑨「勝手」ここは囲炉裏があった部屋です。佐藤家使用の諸道具を展示。
勝手
⑨「佐藤家使用の諸道具」江戸時代後期、佐藤家で用いられたものです。
佐藤家使用の諸道具
⑩「映像・展示室」(台所だったところです)15分間の新選組のビデオを放映中。
映像・展示室