2階展示室写真(抜粋)
もともとこの建物は信用金庫がありましたが閉店後、改修して日野宿交流館となっています。
現在は2階で展示室を開いています。新選組関係の展示から日野宿などを展示している常設展示室が1部屋、そのほか室内に大きな金庫があり同じく①「企画展示室」として日野の渡船場の様子などを展示しています。また、同じく②「企画展示室」があり仲町の万灯神輿(まんとうみこし)や箪笥(たんす)などを展示しています。また、日野の歴史をぜひご堪能ください。皆様のお越しをお待ちしております。
- 展示室内(新選組や日野宿、日野の歴史等を展示)
- ①企画展示室(日野の渡船場や婚礼用鞍等を展示)
- ②企画展示室(膳椀や寛永通宝、万灯神輿等を展示)
新選組

近藤勇や土方歳三、井上源三郎ら、佐藤道場に集まった面々は、将軍家茂の上洛警護(じょうらくけいご)のために組織された浪士(ろうし)組に加わり、文久3年(1863)に上洛した。浪士組の帰東後も京都に残った彼らは、会津藩(あいづはん)預かりとなり、やがて新選組と命名された。新選組は京都の市中警備にあたり、元治元年(1864)の池田屋事件により、その名は広く知られるようになった。慶応4年(1868)の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いで、新選組は徳川方として薩摩軍(さつまぐん)と戦火を交えた。戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりである。しかし、薩摩軍の近代兵器の前に井上源三郎をはじめ多くの死傷者をだした新選組は、江戸に戻り、明治新政府の東征軍(とうせいぐん)を迎え撃つことになった。【土方歳三】(土方歳三資料館蔵)
東征軍(とうせいぐん)

近藤勇・土方歳三らは、新選組を母体とする甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織し、江戸に向けて進撃する東征軍を迎え撃ったが、慶応4年(1868)の勝沼戦争で敗北した。日野宿の佐藤彦五郎もまた、別働隊(べつどうたい)として日野宿の農兵らによる春日隊(かすがたい)を組織してこの戦いに加わっていた。
日野宿に入った東征軍は、佐藤彦五郎の行方と武器の隠し場所を厳しく追及し、宿内は緊迫した。また、近藤勇は流山で新政府軍に投降して斬首(ざんしゅ)され、土方歳三は転戦(てんせん)の末、箱館戦争(はこだてせんそう)の中でその生涯を閉じ、長い戊辰戦争は終結した。
かつて日野宿では明治維新を、徳川幕府の崩壊、すなわち「瓦解」(がかい)と呼んでいた。
【日野宿の農兵の調練旗】(和田洋介氏蔵)
日野宿に入った東征軍は、佐藤彦五郎の行方と武器の隠し場所を厳しく追及し、宿内は緊迫した。また、近藤勇は流山で新政府軍に投降して斬首(ざんしゅ)され、土方歳三は転戦(てんせん)の末、箱館戦争(はこだてせんそう)の中でその生涯を閉じ、長い戊辰戦争は終結した。
かつて日野宿では明治維新を、徳川幕府の崩壊、すなわち「瓦解」(がかい)と呼んでいた。
【日野宿の農兵の調練旗】(和田洋介氏蔵)
大名行列

甲州道中を参勤交代で往来する大名は、高島(諏訪)、高遠、飯田の3藩で、東海道や中山道に比べると少なかった。大名の宿泊や休憩には本陣があてられた。日野宿では長らく上佐藤家が本陣を、下佐藤家が脇本陣を勤めていたが、幕末には下佐藤家も本陣を勤めた。
また、元文3年(1738)までは毎年4月に宇治の茶を江戸まで届ける「茶壷道中」が甲州街道を下り、通行には細かい作法や接待が求められた。このほか無役の旗本で参勤交代をする交代寄合や、甲府勤番、八王子千人同心、甲府定飛脚などが頻繁に往来していた。
【従高遠江戸まで道中記 嘉永6年(1853)】甲州道中を参勤交代する高遠藩が道中の情報を書き込んだもの。(伊那市立高遠町図書館蔵)
また、元文3年(1738)までは毎年4月に宇治の茶を江戸まで届ける「茶壷道中」が甲州街道を下り、通行には細かい作法や接待が求められた。このほか無役の旗本で参勤交代をする交代寄合や、甲府勤番、八王子千人同心、甲府定飛脚などが頻繁に往来していた。
【従高遠江戸まで道中記 嘉永6年(1853)】甲州道中を参勤交代する高遠藩が道中の情報を書き込んだもの。(伊那市立高遠町図書館蔵)
日野宿の暮らし

甲州道中に沿った日野宿の民家は、街道にそって敷地が短冊形に区画されていた。そこに立ち並ぶ家々は、周辺の農家とは異なった。いわゆる町屋(まちや)の建築だった。
母屋は街道に寄せて間口いっぱいに建てられ、街道に面した部分は、多くの場合店として使われた。農家では農作業や調理の場として使われていた土間は、接客や職人の仕事場として用いられ、その奥に住居部分が続いた。
母屋の裏手には庭が作られ、蔵や納屋が建った。さらにその裏手には畑が広がり、自家で消費する野菜などの栽培が行われていた。現在の日野宿では町屋建築の多くが失われたが、往時の町割りは変わっていない。
【短冊形に区画された日野宿の町割り】(『日野市史 民俗編』より)
母屋は街道に寄せて間口いっぱいに建てられ、街道に面した部分は、多くの場合店として使われた。農家では農作業や調理の場として使われていた土間は、接客や職人の仕事場として用いられ、その奥に住居部分が続いた。
母屋の裏手には庭が作られ、蔵や納屋が建った。さらにその裏手には畑が広がり、自家で消費する野菜などの栽培が行われていた。現在の日野宿では町屋建築の多くが失われたが、往時の町割りは変わっていない。
【短冊形に区画された日野宿の町割り】(『日野市史 民俗編』より)
甲州道中

甲州道中は、江戸日本橋を基点に甲府を経て下諏訪に至る街道で、東海道、中山道、日光道中、奥州道中と共に五街道と呼ばれた。距離は55里(約216キロ)で、45の宿場があった。
戦国末期の日野市域は北条氏照の領国下にあり、日野用水の開削(かいさく)や街道の整備が行われていた。北条氏に代わって徳川家康が天正18年(1590)に関東に入国すると、代官頭であった大久保長安が多摩地域の開発を展開し、甲州道中などの街道の整備が進められた。今も万願寺に残る一里塚は、長安の命により築かれたものだった。
【調布玉川惣画図 弘化2年(1845)】(日野市郷土資料館蔵)
戦国末期の日野市域は北条氏照の領国下にあり、日野用水の開削(かいさく)や街道の整備が行われていた。北条氏に代わって徳川家康が天正18年(1590)に関東に入国すると、代官頭であった大久保長安が多摩地域の開発を展開し、甲州道中などの街道の整備が進められた。今も万願寺に残る一里塚は、長安の命により築かれたものだった。
【調布玉川惣画図 弘化2年(1845)】(日野市郷土資料館蔵)
助郷(すけごう)

日野宿では人馬継送(じんばつぎおく)りのために通常25人25疋(ひき)の人馬を負担したが、それ以上の人馬を必要とする場合には、近隣の村から人馬が提供された。幕府は宿場ごとに伝馬の一端を担(にな)って人馬を出す村を定め、これらの村々は助郷と呼ばれた。
日野宿では貞享(じょうきょう)元年(1684)の伝馬証文により、周辺の37か村が助郷村に指定された。日野宿の助郷村は、日野市域のみならず、多摩市、八王子市、立川市、昭島市、府中市といった広範囲に広がっていた。【武蔵国多摩郡甲州道中日野宿助郷参拾七カ村絵図】(佐藤信行氏蔵)
日野宿では貞享(じょうきょう)元年(1684)の伝馬証文により、周辺の37か村が助郷村に指定された。日野宿の助郷村は、日野市域のみならず、多摩市、八王子市、立川市、昭島市、府中市といった広範囲に広がっていた。【武蔵国多摩郡甲州道中日野宿助郷参拾七カ村絵図】(佐藤信行氏蔵)
人馬継立て(じんばつぎたて)

宿による荷物の輸送は、前の宿場から送られた荷物を、自分の宿の人馬に付け替えて次の宿場に送るというものだった。この「継立て」が常にできるよう、甲州道中では25人25疋(ひき)の人馬を用意していた。日野宿ではこのうちの5人5疋(ひき)を「囲人馬(かこいじんば)」として残し、幕府の急ぎの輸送(ゆそう)などにあてていた。
このような宿の事務を執(と)る役所が問屋場だった。問屋場は宿の中央に位置し、その最高責任者である問屋は上佐藤家、下佐藤家が交代で務めた。また、これを補佐する年寄が2人ずつ問屋場に詰め、記録をとる帳付と、人馬の差配をする馬指がその下に勤めていた。
【明治30年代の日野宿】中央の道標の右側が、問屋のあった場(佐藤彦五郎新選組資料館蔵)
このような宿の事務を執(と)る役所が問屋場だった。問屋場は宿の中央に位置し、その最高責任者である問屋は上佐藤家、下佐藤家が交代で務めた。また、これを補佐する年寄が2人ずつ問屋場に詰め、記録をとる帳付と、人馬の差配をする馬指がその下に勤めていた。
【明治30年代の日野宿】中央の道標の右側が、問屋のあった場(佐藤彦五郎新選組資料館蔵)
日野煉瓦(ひのれんが)

甲武鉄道(現JR東日本 中央線)の立川~八王子間の建設に先立ち、日野宿では土淵英(つちぶちはなぶさ)(支配人)、河野清助(こうのせいすけ)(会計主任)、高木吉造(たかぎきちぞう)(工業監督員)が日野煉瓦工場の新設願いを提出した。
日野宿の東端に設けられた工場は、工場長を横浜から招き、日野の煉瓦人を集めて煉瓦を生産し、明治21年(1888)に鉄道局に50万個の煉瓦を納入した。これらの煉瓦は、立川~八王子間の橋脚をはじめとする種々の鉄道建造物に使われた。 この煉瓦工場は鉄道が開通した明治22年(1889)に廃業したが、多摩川鉄橋の橋脚に使われた煉瓦は、現在も中央線の運行を支えている。
【中央線多摩川鉄橋 大正時代】「日野名勝絵葉書」より。橋脚に"日野煉瓦"が使われている。
日野宿の東端に設けられた工場は、工場長を横浜から招き、日野の煉瓦人を集めて煉瓦を生産し、明治21年(1888)に鉄道局に50万個の煉瓦を納入した。これらの煉瓦は、立川~八王子間の橋脚をはじめとする種々の鉄道建造物に使われた。 この煉瓦工場は鉄道が開通した明治22年(1889)に廃業したが、多摩川鉄橋の橋脚に使われた煉瓦は、現在も中央線の運行を支えている。
【中央線多摩川鉄橋 大正時代】「日野名勝絵葉書」より。橋脚に"日野煉瓦"が使われている。
そのほかの展示(抜粋)
- 【宿場の様子】(東海道藤枝宿・複製)(個人蔵)安藤広重筆『東海道五十三次』から。当時の宿場の様子が描かれている。
- 【仲町の万灯神輿】まんとうみこしと言われ八坂神社の例大祭で使われていた。
- 【膳椀一式】(日野市郷土資料館蔵)
上佐藤家で使われていた膳椀で、参勤交代の大名などの接待に用いられたと伝えられている。
- 将軍様に生きたアユを献上したとされている。
- 【婚礼用鞍】金でいと言われ金持ちの象徴とされた。
- (上)そろばん、寛永通宝(真鍮4文銭)、(鉄1文銭)、(銅1文銭)、(右)銭枡。
- 多摩川日野渡船場(とせんば)の渡風景
- 【江戸時代の日野宿の様子】
- 甲州街道の歩道で使われていた煉瓦